AI・対・人間(人類) ・・「実体験の質」を考える・・ VETミッション・・・No.63

実体験ベースが必要ない、言い換えれば、情緒や感覚をともなわない単純な言語だけのロジカルシンキングが得意な人も少なくない。≪「図-人間の発達」のパターンの人≫
知識(情報)を沢山頭に入れていて、それらを結論や結果に向けて組み立てる論理的能力に優れている人である。しかし、これに当て嵌まる人のなかには、生活や人生の実体験が乏しいため、結論や結果が持つ多くの人の「価値」(ここでは人間的喜び)には無関心な人(この短文では極端なBパターン人間を「ロジカルだけ人間」と呼んでおこう)も、数十年前に比べて極めて多くなっている。(ロジカルだけ人間は、上司や上位の法則や論理のみに従う)(この極端な典型が、AIともいえる。)

この「ロジカルだけ人間」が増えているのは、必ずしもご本人のせいばかりではない。むしろ、そういう風に育てられたのだ。うがった言い方かもしれないが、この「ロジカルだけ人間」こそが、日本の公教育体制がここ数十年かけて育てようとしている「人間」だからである。その優等生が「ロジカルだけ人間」であり、近年、そうなるのは嫌だと逃げ出したのが、いわゆる不登校の子供たちだったり、首をすくめて授業(学校生活)をやり過ごし、放課後になったら学校では出来ない(許されない)分野で頑張っているマイナーな人たち(此処では「個性派人間」と呼んでおこう。)である。
この「個性派人間」の一部は、ロックや漫画やマイナー(傍流)なスポーツに専心したりする。マイナーだったはずの漫画や、スケボーがいつの間にかメジャー(主流)になって、輸出産業になったり、オリンピックで金メダルを取ったりする。発明王エジソンを含め、不登校だった「個性派人間」の偉人はすくなくない。その意味では、自由に意欲的に体験を積み重ねていけば、人間は成長発展していくのである。その意味で、その「自由」の貴重さを嗅ぎ分けた不登校の子供たちは、何かの才能がある人も多い(少なくともロジカルだけ人間は、「人間的ではない」という感覚は持っている。)ので、誉めてあげた方が良いかもしれない。
それはともかく、この「ロジカルだけ人間」は知識量も豊富でロジカル思考(計算)に強い人が多い。受験にも強いので、社会の中心(主流)になっていく人が多い。しかし中心(主流)になる「ロジカルだけだけ人間」は応用問題には極めて弱い。なぜか、実生活の体験が少なく従って問題発見問題解決の実体験も少ないからである。従って、こういう「ロジカルだけ人間」が主流にいる社会の発展は難しい。
では、「個性派人間」なら良いのかと言うと、そう簡単には行かない。問題は、体験の質である。なぜならば、体験は、適切に言語化されることによって質を高めていくことができるし、そういう質の高い言語化が出来ることで、有効なクリティカルシンキングが可能になるからである。この様なこの言語化やクリティカルシンキングに関しては、その個性や独自性を殺さない範囲で、ある程度の支援があった方が、成長発展が早いとは言えるだろう。
しかし、現代日本での問題は、この「言語化」や「クリティカルシンキング」と同時に問題なのは、やはり、「体験」や「経験」の質量が圧倒的に不足しているという問題である。この「体験」「経験」がないと、「問題発見」に至れないし、当然「問題解決」を迫られることもないので、「言語化」や「クリティカルシンキング」の糸口にたどり着けないからである。
特に問題なのは、自然との触れあい体験であり、多様な人々との交流体験である。都市化した社会で先ずは、自然を象徴する水と泥と生物が関係するどろんこ遊び体験がない。(どろんこ遊びでは、ミニ水害や土砂崩れは茶飯事である。)また、老若男女の体力や情緒や能力も多様な人と一緒に助け合って暮らす体験や、同世代の仲間と大人の干渉なしで触れ合う機会も極めて少ない。こういう、様々な体験を踏まえた「言葉」には、様々な思いが込められており、シッカリした体験的裏付けとなる言語となっていく。論理的に積み上げていく場合も一つひとつが石垣の様にしっかりと積み上がっていく。しかし、体験の裏づけの無い言語での積み上げは、例えばプラスチックのブロックでの積み上げの様に、蹴とばせば壊れてしまうくらい弱い。
とりあえず、ここまでは筆者の独断と偏見で観察結果として良しとしていただくことにして、問題は、次である。

この「ロジカルだけ人間」の得意分野と、まともにぶつかって、しかもロジカルだけ人間には勝てそうもないのがAIである。知識の積み上げとその論理的展開は、AIが最も得意とするところである。この部分では、言語的知識(情報)量では、個々の人間よりはAIの方が圧倒的に優位である。この言語を論理的に組み立てて何かの答を出す(演算・速度)のも、AIの方が圧倒的に早い。言い換えれば、「ロジカルだけ(Bパターン)人間」対「AI」では、人間の負けである。
では、どうすればよいのか。少なくても当分の間、AIが追いつけないのが、上記に触れたように、自由な「体験」を大切にする「個性派人間」(Aパターンが基本)である。自然体験についても物理的体験というだけならフィジカルAIが早晩追いついて人間を追い越していくだろう。しかし、花などを見て美しいと感じる個々の人間特有のふれあい感覚はAIには、困難である。また、多様な人間関係の中でも一定のレベルのコミュニケーションまでは、AIでも可能であろうが、疑似的なレベルはともかく、様々な多様な助け合いや、感情の真に裕(ゆたか)な交流はAIには困難であろう。(パターン化された『美』や、『快適な応答』はAIでも可能。)
そして、こういう体験の裏付けのあるクリティカルシンキングが出来る「個性派人間」対「AI」では、人間がAIに負けてしまうことはないだろうし、人類が消滅することもないだろう。しかし、日本では、こういう豊富で裕な体験の必要性を感じている人は多くはないし、まして(経済的理由もあって)それができている人間は極めて少ない。大都市に住む大多数は出来ていないし、主流の「ロジカルだけ人間」は、このAパターンが存在するという意識すらない場合が多い。
しかし、ローカルな一部のコミュニティがそれに気づき、それを目指して頑張っているのは、一縷の希望の光と言えるだろう。
(ある人が、「『防衛費の増額』は都市住民のためだけに必要なのだろう。田舎が攻撃されることは、無いんだし・・。それを考えて、疎開先を探している人もいる。」と言っていた。そこまで言うかと思うが、「戦争(被災)体験者」から見れば、確かにある種の真実を含み、考えさせられる一言だった。)
(泣いた赤鬼・川廷 宗之・記)
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今回の図は、近藤茂樹著「集団保育と心の発達」1969年、新日本出版 で使われている図を参考に筆者が作成したものです。
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