自分(達)の事は自分(達)で、決める。・・「憲法」も自分たちで・・VETミッション・・・No.43・・5月27日発信
- 川廷 宗之(Motoyuki Kawatei)

- 2 日前
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ICF(国際生活機能分類)の「活動と参加」の第9章は「コミュニティライフ・社会参加・市民生活」である。この第9章は、d910.コミュティライフ、d920.レクリエーションとレジャー、d930.宗教とスピリチュアリティ、d940人権、.d950政治参加と市民権、と、5つの分類項目に分けられている。(「d」は「活動と参加」の分類記号)このd950の解説では、「市民として、社会的、政治的、統治的活動に関与すること。市民として、合法的地位を有し、その役割と関連した権利、保護、特権、義務を享受すること。・・後略・・」となっている
まさに、人間の「生活」の一部として、政治的な側面にも参加し、権利を行使し義務を果たすとなっている。
その意味で、最近、憲法改正をめぐる議論が盛んにおこなわれているが、その中心テーマの一つは第9条をめぐる議論の様である。しかし、本来、まず議論をすべきは、このICFの分類にもあるような、「社会(政治)参加の権利義務を容易に果たせるようにすべき」という点ではなかろうか。憲法改正論議でいえば、第九十六条【憲法改正の手続】の問題である。この条文は、「1.この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。2.略」となっている。
この規定は、私たちの年年歳歳・日々変わりゆく「生活」の改善を考える時、改正手続が絞られ過ぎているのではなかろうか。例えば、同じ憲法第十六条では、【請願権】として「何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正 その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。」(アンダーラインは筆者による。)となっている。
とすれば、憲法であれ、国民が改正などに関して請願や提案(や発議)を行っても良いのではないか。その意味では、「国会の発議」にしても両院の2/3ではなく過半数でもよいし、少数意見尊重という立場からは、1/3の賛成でも良いのではないか。そうする事によって、市民としての意思決定の(考える)機会を増やし、自分達自身の運命を決める責任を担えるのではないか。もし、発議が安易すぎるというのであれば、最終的に決めるのは、国民なのであるから、むしろこちらを国民投票の過半数だけではなく、有権者の過半数の賛成としておく方が、発議で枠をはめるより国民主権(憲法・前文)にふさわしいのではないだろうか。
憲法改正に関して言えば、先ずは、この改正を行ったうえで、個別条文の改正をその都度、国民に図っていく方が、国民の意思を反映させやすいのではないか。関係者には「憲法を守れ」とだけ言われても、自分たちの意思が全く反映していいないとしたら、守る気になるかどうか、素朴に考えて欲しいと思う。(現行憲法制定時に投票権を持っていた人は、もう、ごく少数しかいない。)
こういう提案は、「選挙で国会議員を選んでいるのだから」という言説で押しつぶそうとする傾向がある。しかし、選挙制度自体が国民の声を的確に反映するには限界があるし、特に個々の(重要)法案などについて、選挙は国民が個別に意思表明できる制度ではない。
その意味でも、憲法の改正をはじめ、その時々に主権者たる国民の判断を仰ぐシステムは、間口をできるだけ広くして、その時々(時代)に社会を担っている国民(市民)が参加しやすい様にすることが大切である。また、こうすることで、憲法の条文などを、国家機関(最近では特に検察なども)が自分達の組織の都合の良いように解釈し、その責任や結果だけを国民に押し付けるという現状を、少しでも減らしていくことができるのではなかろうか。
そして、何よりも、社会の風通しを良くし、いま生きる幸せを感じられる人が増える(閉塞感に苦しんでいる人が減る)のではないだろうか。
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