「貧乏人は麦を食え」か「法的安定性」か・・「人生(生活)のリアル」とは ・・・No.35・・4月1日発信
- (一社)職業教育研究開発推進機構
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- 6 日前
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現実生活で「人間として生きる」には、「ながれ」や「やりくり」の展開がとても重要だと前回触れた。そしてこれが理屈として解かるというのではなく、現実的に実行したことがない根無し草的人々が少なからずいる点にも触れた。この根無し草的人々の議論の特徴の一つが、「人間の生活」=「人生」の全体像を見ていない事、あるいは「人々の暮らし」(生活)が体験的にわかっていないという事である。
昔、「貧乏人は麦を食え」と言って糾弾された人がいた。しかし、彼は当時「生活」の基本の一つが食べる事であり、貧乏はその基本を直撃するということ、また、コメと麦は主食になりえること、麦の方が安いことも知っていた(生活をある程度分かっていた)からこそ言えたのであろう。
これに対し、最近のニュースで言えば、裁判の再審請求を巡る議論の中で「法的安定性を損なうから」(関連する証拠の提出義務を認めない)という意見である。私は、そもそも裁判で証拠資料となりえるものの一部を検察側が法廷に出さないというのでは適正な裁判は望めないではないかと考える。が、その一つの論拠が「法的安定性」という、社会構成のごく一部の「法」の世界の論理だけからの論拠、と言うのには恐れ入る。基本的に人が幸せに生きること(その基本としての基本的人権)が基本目標である事は、裁判も同じことではないか。他者の人生を何らかの形で阻害した人に、然るべきペナルティを科すというのは、やむを得ない事ではある。しかし、ペナルティを科すことが第一目標ではない。阻害行為を行った人も、それを繰り返させないことが目標で、その範囲で、人権は認められるべきであろう。そして、その判定はすべての根拠(証拠)を公開し、公平な判断にゆだねるべきで、有罪を導くために証拠を隠すなどと言う事は、人生(人権)と言う基本を大切する考え方(日本国憲法など)からはあり得ないのではないだろうか。
では、人生や生活のリアルとは、どうとらえればよいのだろうか。その一つのわかりやすい分類項目が、ICF(国際生活機能分類)である。この中の構成要素として、身体機能や、環境因子と並んで「活動と参加」と要素も指摘されている。この構成要素は、1.学習と知識の応用 2.一般的な課題と要求 3.コミュニケーション 4.運動・移動 5.セルフケア 6.家庭生活 7.対人関係 8.主要な生活領域(教育・仕事と雇用・経済生活) 9.コミュニティライフ・社会生活・市民生活 の9つの章から構成されている。「生活」の全体像をどう捉えるかに関しては他にも分類があるが、この分類がもっとも、日々の生活の要素を漏れなくカバーしていると言える。人が生きる、生活をするとは、まさにこの9つの内容をすべて総合的に関連させつつ動いていくことなのである。
従って、本来、何をするのも、この9つの章の総合的な「生活」基板を踏まえて考え、活動していく必要がある。
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ご意見送付先・ kawateikaikyo@yahoo.co.jp (泣いた赤鬼・川廷 宗之・記)
