「問題解決」も、「見よう見まね」から始まる。 ・・・No.38・・4月22日発信
- 川廷 宗之(Motoyuki Kawatei)

- 16 時間前
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ICFが、「見よう見まね」から、「技能の習得」までを整理した後に、示しているのは、「注意して集中し」「問題解決」に取り組み、「意思決定」をしていく一連の流れとしての「知識の応用」である。見よう見まねという「技能の習得」の基本ができていれば、この一連の流れに関しても見よう見まねで習得きる。つまり、この一連の流れを行うという「技能の習得」が出来るはずである。しかし、(前回も触れたが)見よう見まねが上手すぎたり(暗黙知を確認しないまま形式知≒言語化してしまう)、できなったり(暗黙知を確認できない、あるいはそれを言語化できない)、など「適切に行えない」場合は、両方とも「技能の習得」が不完全なので、この一連の流れを行えない。(暗黙知・・五感を動員しての経験を意識的に確認した「知(識)」)
筆者が危惧するのは、「技能の習得」が不完全だと、「注意して集中し」「問題解決」に取り組み、「意思決定」をしていく「一連の流れ」が出来ないことである。人間はこの「技能の習得」を踏まえ、「一連の流れ」を繰り替えすことで成長発展していくからだ(動物なども同じかもしれないが)。
また、社会現象としても、この「一連の流れ」によって、いわゆる先進国などの様々な仕組みや技術などの「見よう見まね」から出発しつつ、それを乗り越えていく面白さを多くの人が感じていた時代が日本でも、あったからである。しかし、今はそれが出来なくなってきている(やらない、やれない理由ばかりを考える)と感じるからである。日本の社会は、一時期、経済大国、“JAPAN as No.1”などと言われて、もう外国から学ぶものはないと慢心していた時期を経て、その後は、一転して、新しい事への挑戦を避けて、日々の暮らしを(自分だけでも)平穏に過ごせればよいので、そっとしておいて、という雰囲気になりかけているようである。
結果的に、外国に出て学ぼうとか、何かをしようとか言う人は減っており、身近にいる外国人との交流(すれば色々と学べるのに、それ)すら拒否するという雰囲気が増している。
しかし、これでは日々の暮らしは「楽しく」ならないだろう。
では、どうすればよいのか。いうまでもなく、まずは「見よう見まね」の質(五感を動員した体験)と量を大切にすることである。その為には、「見よう見まね」の対象となるモデルとして、五感をともなわない不完全なものや、悪質な意図を持ったものを排除していくことであろう。この動きは、すでに、子どもたちのタブレットの使用時間や、ネットでのゲームへの接点を制限するなど、いくつかの国では動き出している。つまり、ネット情報は「五感をともなう」「感覚的経験」を伴わない(不完全な)ので、その模倣は実社会では歪んだ反応になってしまうからである。(この点では、日本は、教科書を全てタブレット経由には、しなかったのは評価されるべきだろう。)
また、学習の目標も、「知識の記憶」が事実上の目標になっているのは、日本を含む少数の国であり、大勢は、学習(教育)の目標を「一連の流れ」の「注意して集中し」「問題解決」に取り組み、「意思決定」を行えるようなることにはっきり焦点を据えている。(この点の改善の必要性は、産業界の意向なども踏まえて、マスコミなどが再三にわたって報じている。)
結果はどうであれ、自分で「注意して集中し」「問題解決」に取り組み、「意思決定」をして成功すれば、これほど「暮しを楽しめる」ことはないし、失敗してもそれなりに「納得できる」であろう。とすれば、私たちは、先ずは、「見よう見まね」を徹底して行って、それなりの「技能」を修得し、その技能を使いつつ、「一連の流れ」の技能を習得すべく、「意識して」取り組むことが必要だろう。この過程は、人によって様々に異なるので、色々な個性も生まれてくるだろう。自分とは異なる見解の人と、意見を戦わせながら、自分の「技能」を鍛えなおし「成長」や「発展」を自覚できると、とても楽しいのではないか。
同時に、他の人も(若い世代も、外国人も)それなりに適切な「見よう見まね」を行えるように、「一連の流れ」の習得に適切に取り組めるように、(見よう見まねのモデルになりうる)環境づくりに取り組んでいきたいものである。
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ご意見送付先・ kawateikaikyo@yahoo.co.jp (泣いた赤鬼・川廷 宗之・記)
