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生活を楽しむ・自分が自分の「主体」であり得るとき・・VETミッション・・・No.48・・7月1日発信 


 前回、「「買い物」が楽しいのは、自分が自分の主人公として判断し行動できる場合が多いからである。」と書いた。裸で山積みの多少は泥付きのレタス一個168円で買うか、一個一個綺麗に包装してあるレタス一個198円で買うか、使い勝手を考えたり、衛生条件や栄養価や、本日の買い物予算枠との整合性を考えたりしながら、自分で判断して買うから楽しいのである。(勿論、野菜類を含め食料品の高価格には頭を悩ませつつも)

 つまり、日々の生活をある程度楽しめるには、自分がどうするかを決める(『主体性を発揮する』)主人公(『主体』)でいられる時であろう。この「自分の事を自分で決める」というのを、すこし科学的に表現すれば、「主体性の発揮」となる。この「主体性」というのは、私たちの日常の楽しさや幸福感と大変大きな関係があるのだが、あまり日常的には使われない。しかし、非常に重要なキーワードである。「主体性」とは、要するに「何かを自分の意思で行う」という理解で良いだろう。主体性の「性」を外した「主体」とは「何かを自分の意思で行う『側』」と言える。

 行う『側』とわざわざ言うのは、行われる『側』がいるということで、この行われる『側』を『客体』という。従って『主体』は、「中心」と言い換えても良いだろう。何かを行えば、その(客体への)影響はそこから同心円状に広がっていくからである。従って「主体」という時に重要なのは、主体」の影響受ける側「客体」と常にセットになっているという点でもある。

 かつて、否定的な意味で使われた「自己中(心)」という言葉がはやった時期があり、当時の若者たちの一部は、何故「自己中」ではいけないのかと反発していた。「主体性」の発揮という意味でいえば、自分中心の「自己中」も一つの表現や行動であり、すべて否定的に扱うべきではない。しかし、主体性の発揮」と「自己中」が違うのは、「客体」の存在を意識するかどうかである。ただし、客体」の存在を意識したとしても、結果的に無視してしまうなら、その「主体性の発揮」は、結果的には「自己中」と変わらない

 当時の(今もそうかも)若者たちにとって、その意味で、「自己中(=わがまま)はいけないよ」などという大人たちの言動自体が、結果的には他者(客体)を顧みない「自己中」と同じことではないかという風に見えた(見える)のであろう。色々と文句をつける大人たちが、他者を顧みない「わがまま=自己中」な言動をするのであれば、私達(若者)だって、「自己中でいいじゃん」となるのは当然であるし、そういう若者の言動を否定できない。しかし、「主体」が動けば必ず「客体」が存在する社会で、「自己中」がまかり通る社会になれば、「主体」の陰に膨大な「客体」が隠されてしまう可能性が強い。また、「主体」同士がぶつかった場合は、圧倒的な資金力や権力や暴力を保有している「主体」が勝つ(相手を客体化してしまう)に決まっている。

 では、人類の大部分の虐げられた「客体」や、資金も権力もない「主体」は、強い「主体」に従わざるを得ないのだろうか。どう乗り越えるのか、次回考えてみよう。

 

(泣いた赤鬼・川廷 宗之・記)


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