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「主体性」を持ち続ける。「楽しみ」「裕かな人生」を諦めない。VETミッション・・・No.49・・7月8日発信 


 人類の大部分の虐げられた「客体」(例・パレスチナの人々・等)や、資金も権力(や暴力装置もない・弱い)もない弱い「主体」(例・ウクライナやイラン(国民)等)は、強い「主体」に従わざるを得ないのだろうか。現実は、相当に難しいのだが、私たちは、現在のウクライナやイランの人々によって、必ずしも客体や弱い主体が、強い(と考えられる)主体に虐げられてばかりではない事を、目の前で見せられている。

 なぜこうなるのか、その理由の一端は、20世紀の歴史から学ぶことが出来る。それは、ガンジーらを代表とする(非暴力の)インド独立運動や、フランスやアメリカの支配に抵抗したヴェトナムの人々などや、一方では長年にわたってお互いに悲惨な戦いを続けてきた独仏などの国々が手を結んだEUの実現などを通じてである。

 その歴史的な意味を、この短文で言うのは難しい。が、一つだけ言えることは、ウクライナ(国・人々)も、イラン(国・人々)も、パレスチナも、当時のインドも、ヴェトナムも、強い主体に攻撃され振り回されても、最終的には同国の人々が「自分たちの主体性を失わない(なかった)」ことである。

 つまり、「主体」「客体」(弱い「主体」)ではなく、「主体」「主体」という関係になったとき、「支配-被支配」ではない、新たな関係が生まれてくる可能性があるという事である。(国対国と人対人でも同じことが言える。)しかし、同時に、「主体」「主体」の関係は、歴史や現実に見る様に、悲惨な戦い(喧嘩・殺し合い)になる場合もある。従って、それなら「客体」で良いから何とか生きていければよいと考える人も少なくないだろう。しかし、やはり「客体」として(あたかも、誰かの指示通り動くロボットのように。あるいは、ハラスメントをじっと耐えるがごとく)生きるのは、楽しくない

 その結果、ある場面では、「客体」として虐げられていても、別な場面で「主体」としてやりたい放題にふるまう人も少なくない。会社で上司や顧客から散々客体扱いされた(ハラスメントされた・虐められた・)人が、家族(特に妻や子に)に今度は強い「主体」として暴力をふるったり、また、顧客として店員の細かいミスを罵しったり(ハラスメント・虐める・)する。さらに、この様な人の一部は、訳が分からなくなって、無差別殺人などの事件を起こす例も少なくない。

 とすれば、人間として楽しく生きたいのであれば、「客体」扱いにされた時には、戦っても「主体性」を取り戻さなければならない。その戦いは簡単のものではない。多くの場合、相手は自分の行いに関し問題があるとは思っていないので、「主体」としてその能力(金力・暴力・権力など)を思いっきり使って戦ってくるのだから。しかし、最後は、一人の人間として生きるという「主体」としての自覚であり、プライドであろう。さらには、今は何とか切り抜けられたとしても、将来も何とか生きて行けるかどうか分からない。さらに、そのような人生、生きることに価値を見出せるだろうか。

とすれば、単に自分が自分の「主体」であるだけでは、楽しくは生きられなさそうである。ではどうするか。また、次回にしよう。

(泣いた赤鬼・川廷 宗之・記)


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