福澤諭吉はなぜ「実学の祖」と呼ばれるのか【職業教育コラム(宮田雅之⑦)】
- 宮田 雅之(Masayuki Miyata)

- 2月3日
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更新日:1 日前
福澤諭吉が「実学の祖」であることに異論を唱える人は、さほど多くないであろう。では、なぜ福澤はそのように認識されるようになったのか。本稿では、その理由について考察してみたい。
福澤が「実学の祖」と呼ばれる理由をひとことで言うならば、学問を「知識の飾り」ではなく、「社会で役に立つ力」として再定義した点にあるのではないだろうか。
福澤は、学問を「生活と社会を変えるための道具」と捉えていた。当時主流であった朱子学的な観念論(※)や、暗記中心の学問を強く批判し、代わりに「日常生活に役立つ知識」「仕事や社会運営に直結する能力」「自分の頭で考え、判断する力」を重視した。すなわち、「役に立つ学問=実学」という考え方である。福澤が遺した「学問とは、人間の独立を助くるものなり」という言葉は、その思想を端的に表している。
また福澤は、西洋の「実用知」を日本社会に翻訳・導入した人物でもあった。蘭学や英学を通じて、西洋近代の知を日本に紹介し、経済学や商業知識、法律・政治制度、自然科学や統計、さらには論理的思考(reasoning)といった分野を広く普及させた。『学問のすゝめ』や『文明論之概略』は、専門家のための学術書というよりも、一般市民に向けた「社会で使える教科書」であったと言えるだろう。
さらに福澤は、学問を「士」から「市民」へと解放した。江戸時代の学問は、基本的に武士階級の教養であり、身分社会の中の「特権的知」として位置づけられていた。これを覆し、学問を身分にかかわらず、誰もが社会で自立するための武器と捉え直した点に、福澤の大きな功績がある。この思想は、近代市民社会の形成や起業家精神の醸成、さらには実務家・専門職の育成へとつながっていったと考えられる。
加えて、福澤は慶應義塾を「実学の実験場」として位置づけ、いわば教育の実証実験を行ったとも言える。福澤が創設した慶應義塾では、試験よりも「議論」を、暗記よりも「理解」を、権威よりも「合理性」を重んじる教育が実践された。この精神は現在に至るまで受け継がれ、「実学の慶應」と称される所以となっている。
以上の考察から、福澤諭吉が「実学の祖」と呼ばれるのは、学問を人格修養にとどまるものから、社会を動かし、人々の自立を支える力へと、日本で初めて体系的に位置づけた人物であったからだと言えるのではないだろうか。
追伸
本コラムの掲載日である2月3日は福澤諭吉の命日です。例年、麻布山善福寺(港区元麻布)に大勢の慶應義塾の関係者が訪れ、手を合わせています。
※観念論=「世界を構築しているのは、精神的なもの」という考え方。 対義語である「唯物論」はで「世界を構築しているのは物質」という考え方。

(一社)職業教育研究開発推進機構
代表理事補佐 宮田雅之