「違い」を認めて「共に」生きられれば「楽しい」・VETミッション No.10・ 2025 年 10 月 8 日発信
- 川廷宗之
- 10月8日
- 読了時間: 2分
自分の顔を、お腹が空いた子供達に食べられてしまう
「アンパンマン」を、幼い子供たちは何故「楽しい」と感じたのか。多くの大人たちは何故「アンパンマンの言動」に共感しなかったのか。≪この部分は、全てNHKの朝ドラ「アンパンマン」からの印象である。≫
そこでは「アンパンマン」は自分も傷つきつつ、困っている人を助ける人というイメージである。自分(だけ)が勝ち残っていくヒーローでは決してない。この自分だけが勝って,敗者への配慮は全くなしではなく、お互いに「共に生き残る」ということに、人類の一番の弱者である幼児は「楽しさ」(快)を感じるのではないだろうか。
現代社会は、「お金」という一つの価値における勝ち負けの世界である。それも、ごく少数の勝ち組と、多数の負け組という世界になってきている。負け組は勝ち組が 勝っていく道具(材料)でしかなく「楽しく」ない。
幼児の世界の基準は「快」(楽しい)であって、「お金」ではない。其処では色々な新しい世界を発見させて「楽 しく」させてくれる、自分とは違う他者の存在が不可欠(共生社会)である。20 世紀前半までのまだ都市化がそれほど進んでいなかった社会では、この違う人間との共生社会が大人になってもある程度は存在した。この点を指針としてまとめた資料は、二宮尊徳や渋沢栄一などによっても、ある程度残されている。
しかし、こういう「お金」という価値基準からはみ出してしまっている人々もいる。例えば、其れは、かつては「マンガ」の世界や、芸術やスポーツの世界や、慈善事業の世界だったかもしれない。現代社会でも、「楽しさ」重視で最初から金銭的成功は期待しない、特定の価値観に基づく職業を選ぶ人も少なくない。日常生活の中でも、この個性(価値観)の違いを相互に生かし合う共生が出来れば、人生を「楽しむ」ことができやすくなるのではないか。
但し、其れには条件がある。一つは、自分の価値観をしっかり磨くことである。もう一つは、生活の経済的最低保証の確保である。
ご意見送付先・kawateikaikyo@yahoo.co.jp (泣いた赤鬼・川廷 宗之・記)
