他者の道具にされるのは「楽しく」ない。・VETミッションNo.9・ 2025年10月1日発信
- 川廷宗之
- 10月1日
- 読了時間: 2分
かつては、子どもは過酷な運命を担わされることも多かったとはいえ、親にとってはそれなりに人生のパートナーであったと言えるでしょう。
かつて、学校の先生は、それなりに子どもたちとともに未来を作ろうとしていたとも言えるでしょう。
かつて、働く場面はそれなりに完成の充実感を味わえる仕事であったとも言えるでしょう。
かつて、様々な人間社会(コミュニティ)では、それなりにともに生きていく仲間としての人間同士の共感に基づく助け合いがあったとも言えるでしょう。
そこには、それなりの「楽しい」人生が有ったとも言えます。
現在、少なくとも現代日本では、子どもは親の思うようにさせられる存在である場合も多いようです。学校の先生にとって児童生徒は飯の種でしかない場合も多いようです。働く場面では細かい部分をマニュアル通りにこなすロボット的な業務も多いようです。人間同士の関係は、自分第一主義で、お互いに自分が生きていく道具(=儲けるための道具)でしかない場合も多いようです。
無意識のうちにではあるかもしれませんが、道具ですから、生かすも殺すも自分次第という言動をする人もいて、その通り実践して沢山の人を殺す恐ろしい政治的指導者すら出現しています。
こういう「お互いに道具でしかない」関係は、お互いに人間として「認め」「認められる」関係ではないし、「社会的欲求」満たされているとは言えず、まったく「楽しく」ありません。それどころか、殺し合いすらいとわない大変危険な社会です。
自分も道具扱いされて楽しくないのに、日々の生活に流され、物事を深く考える(分析する)ことをしないと、そのつもりはなくても、自分でも他者を実質的に道具扱いしている場面も少なくないのかもしれません。
しかし、多くの場合、たとえ無意識にでも、道具扱いされ、道具扱いするのはやはり「楽しくない」はずです。ではそういう関係ではないお互いに人間として「認め合える」「楽しい」関係を創っていくにはどうすればよいのでしょうか。
ご意見送付先・ kawateikaikyo@yahoo.co.jp (泣いた赤鬼・川廷 宗之・記)
